6.共生保育は誰のため?
―共生保育とは、今まで排除されていたお子さんとその家族の社会参加と言えますね。すごく意地悪な質問かもしれませんが、もともと排除されていなかったお子さんやその家族にとって、共生保育にはどんな意味があるのでしょうか?一緒に生活するようになったことで、今までできたことが制限される面もあるのではないでしょうか?
末永:ずいぶん前に、スタッフが「Aちゃんがいるから遠くの公園に行けない」と言ったことがありました。そういうときは、まずは、そのAちゃんにとって、遠くの公園に行くことにどんな意味があるのかを問い直してみよう、という話をしました。
本当に、Aちゃんも含めて、みんなで一緒に行く必要があるのでしょうか?もしそうだとしたら「みんなで一緒に行かなければならない」と思っているのは誰なんでしょうか?もし本当に、そのAちゃんも一緒に行くことが必要であれば、その子がもっとスムーズに行ける方法を考えることができます。歩くのに時間がかかるのであれば、行き帰りの移動は、その子はバギーに乗って、公園に着いたらバギーから降りて皆と遊ぶ。それではいけないんでしょうか?
もしも、その子の体力的な問題で、他の子と同じ時間公園にいられず、先に帰らなければならないというのであれば、ひとり保育士をつけて、その子だけ先に帰るようなスケジュールを考えてみる。「先に一人で帰らなくちゃいけないのはかわいそうだ」というのならば、それをかわいそうだと思っているのは誰なんでしょうか?保育士が勝手にそう思っているだけで、本人にとって公園で遊ぶ時間として、その時間が最適なのであれば、それでいいのではないでしょうか。もしも「その子が先に帰るのを、他の子が変だと思うから」というのであれば、そういう状況を変だと思うような子どもに育てたいですか?という話です。
―冒頭のインクルージョンの話とも共通しますね。“このやり方で”と決めつけるから、排除される人が出てくる。本当の目的は何なのか?その阻害要因は何なのか?を考えてみると、実は、阻害要因なんて、ほとんどないのかもしれませんね。
末永:阻害要因は、意外と、大人の固定観念の中にあることが多いと思います。「みな一緒にそろって行って、そろって帰ってくるものだ」とか。でも、通常保育でも、体調がいまいちな子がいたら、外遊びは避けて部屋で遊ぶじゃない?たとえば、「じゃあお昼までは1歳児クラスさんと一緒に遊んでいてね」って。それを「集団から外されてかわいそうだ」と、その一点だけで捉えるのはあまりに表層的です。
もちろん、「この子がいたらあれができない」と思っちゃいけないとは、言わないですよ。実際に「どうしよう!」ということもあります。「かわいそうって思っちゃいけない」とも言いません。でも、自分がそう思っていることを自覚できるかどうかは大切です。自覚していないから、“自分がかわいそうだと思っていること”と“この子が悲しむに違いない”ということをごちゃまぜにしてしまうんです。
―実は、いまだに消化しきれていないある出来事があって…そのことについて、お話させてください。まだ娘が幼かったころ、娘が、顔に大きなあざがある方に向かって「なんでそんな顔なの?」と聞いたことがありました。私はすぐそばにいたので、もちろんその会話は聞こえていたのですが、どう反応していいかわからなくて。黙って会釈して、その場を離れました。あの時の自分の動揺は何だったんだろう、といまだに解釈できずにいます。私は、世の中にはいろんな人がいることを知っていたし、いろんな人がいることが大事だと思っているつもりでした。でも、本当はそんなこと思っていなかったんじゃないかと気がついたんです。
末永:それはそうでしょうね。
―“いろんな人と共に生きる”ってどういうことなんだろう、とモヤモヤしています。
末永:私は、違うことに対して違和感や嫌悪感を覚えるのは、人間として普通のことだと思います。例えば、アメリカやカナダで、人種差別を撤廃するために、あえて、いろんな人種の子を混ぜた学校やクラスを作っても、ある一定年齢に達すると、非常に明確にグループ分けが起こるそうです。白人ばっかりでつるむ、黒人ばっかりでつるむ、お互いになじりあう。おそらく、それは成長のプロセスなんです。共通項のある数人でグループを作って、違いがある人々やグループを排他することによって、自分たちのアイデンティティをあぶりだし、自分が何者なのかを知ろうとする。そもそも、違いがあることに対する違和感って、どんなコミュニティに属していたとしても、ある程度は必ずありますよね。程度の違いはあっても、“違いに対する違和感”というものは必ずあるものなんです。
大切なことは「合意をとること」です。違いがあることやそれに対する違和感はあったとして、じゃあ、お互いにとって、どんな関係性がいいのかを合意することが必要です。障がいのある人への配慮を考える時、「私たち抜きに私たちのことを決めないで( Nothing about us without us ! )」というキーワードがあります。例えば、合意もないまま、医療的ケアが必要な子どもが地元の公立小学校に行けないことを決めるのはおかしなことです。
ちなみに、私は「共生保育をすると子どもがやさしくなります」なんて一度も言ったことありません。共生保育を受けた子どもの方が、人間的に優れているとも思いません。ただ、こういう社会のかたちの方が、みんな安心できて快適だとは思っています。だって、もしも自分が将来、顔がつぶれても、チューブが必要になっても、ここにいていいんだってことですから。
ネアンデルタール人の骨の中に、明らかに生まれつき障がいがあったであろう大人のものがあったそうです。現代よりも圧倒的に過酷な環境の中で、誰かが世話をして愛護して、食べ物を食べさせていたということです。人間は矛盾した生き物ですよね。我が子を捨てたり、殺してしまうこともある。でも、集団で食べ物を分かち合って、誰かを守ろうとすることもある。人間は、その両方の性質をもっているんです。
異質なものを排除したいと思う気持ちもある。でも、それと同時に、自分と違うものやグループに貢献することが難しいものであっても、共に生きたい、守ってあげたい、一緒にいられるって素晴らしいと感じる。この2つは全く相反する考え方に見えるかもしれませんが、ある人は前者で、ある人は後者の考えをずっと持っているわけではないように思います。白黒じゃないんです。分かれていない。両方がひとりの人の中に同時に存在しうる気持ちだと思うのです。
障がいのある子と一緒にいると、しんどい、もう勘弁して、この子から私の人生を解き放ってくださいと言う気持ちが大きくふくらんでしまう日もあるかもしれない。でも、この子を守りたい、一緒にいたい、一緒に生きられるって素晴らしいって気持ちも同時にある。それが普通だし、私は、そこを自覚することがスタートだと思っています。“こういう気持ちを持ってはいけない”とか、“そういう考えは捨てなければいけない”ということはないんです。いくつもの複雑な想いを抱える自分や周りを認めて、一緒に、合意をとりながら生きていくことが大切なんだと思います。そして、そういう社会を創り出していくことも、大切なことだと思っています。
>>インタビュー編集後記は、こちらをご覧ください。