全身全霊で受け止める
#016 信友智子さんインタビュー
信友智子さんは、助産師として、九州を中心に長年にわたって主体的なお産ムーブメントを牽引してこられました。さまざまな状況が重なりあう中、2014年に年間120件のお産を引き受けてきた春日助産院(福岡県春日市)を閉じることを決断。新たな助産院の展開を目指して、自然豊かな秋月(同県朝倉市)に茅葺きの家を建て、新たな場づくりへと踏み出しました。
このインタビューでは、助産師として最前線を走り続ける信友さんのいまに迫りたいと考えました。これまで、仕事や活動を通してインタビュイーの子ども観がみえてくるものをと考えてきたのに対し、少し趣の異なるものになったかもしれません。
インタビュアーである私自身がお産を通して感じたことを問いの核とし、二度にわたるインタビューと校正段階での三度目の追加インタビュー、計6時間の対話を凝縮しています。
助産という営みとその前後にひろがる景色の深みを、それぞれに受け止めていただけたらと思います。
1.誕生は日常
遠藤:先生は、おかあさんが助産婦で、家が助産院という環境で育たれたと聞きました。命が生まれる場所で育つというのはどんな感じなのか、想像がつかないです。
信友:家の中にいつも妊婦さんがいて、赤ちゃんがいて、おっぱいのにおいがする。それに、保育園が制度化される以前から、仕事を持つ地域の母親たちに頼まれて家で託児もしていたので、学校から家に帰ると赤ちゃんや子どもたちがわらわらいて、遊びの延長のような感じで赤ちゃんのおむつ替えをしたりしてましたね。そういう環境なので、赤ちゃんや妊婦さんの存在は、私にとって日常なの。
はじめてお産の手伝いをされたのは、いつですか。
高校生の夏休みです。あの日、人が人を産む瞬間にいさせてもらって、そこから全てスタートしたと思います。
どんな体験だったのでしょうか。
出産という現象自体は、既に知ってたし、そんなに驚かなかったんです。とうとう本物を見ちゃったというくらいで。それより、母と産婦さんの関係性に驚いたんですね。あうんの呼吸で、一緒に汗をかきながら長時間のお産を乗り切る姿。二人の間に流れている独特の空気。こういうことが、自分の親の仕事だったんだと。
なるほど。そして助産師を目指すことに決めて、大学に進学されるんですね。
そうは言っても、最後まで迷っている部分もあって、2年間浪人したんですよ(笑)。でも、結局助産師になることを選びました。それで、大学での実習の現場は大学病院だったんですが、高校生の時に経験した女性のリズムを中心にしたお産とは対極の世界ですよね。人工破膜をされ、尿をとられ、最後は腰に麻酔を打たれて、下半身無痛になった時におなかを押し出されて産む。朝、病室に行くと、会陰切開の痕が痛いという話ばかりで、赤ちゃんの話にならない。ここでのお産は、どうしてこんなにつらそうなんだろうって思ってました。
それでも、大学卒業後は、一番先進的な試みをしていると聞いていた北里大学病院に就職しました。そこでは、バランス麻酔という方法をとりいれていて、痛くなってきたら吸入麻酔して、分娩監視装置で管理して、子宮口が開いたら、静脈麻酔して1,2の3ドンとおなかを押して、赤ちゃんを出す。胎盤まで一気に剥離して、会陰を縫合して、今度は静脈麻酔から覚まさせるために、酸素を吸わせて、意識を覚醒させていく。赤ちゃんは身体を洗って、新生児室に預ける。そういう産婦さんが一日に5人から10人程いるんです。翌日、おかあさんはやっと起き上がれるようになって、新生児室のタグを頼りに、赤ちゃんに対面する。助産師の仕事といえば、赤ん坊とお母さんのタグを間違えないとか、麻酔投与のタイミングとか、分娩監視装置から離れないでいることとかだったりするんです。産婦さんを見ているんじゃなくて、管理している機械を見ているんですね。
その後、大学病院を辞められて、春日助産院で働かれることになるんですね。
母が手首骨折したことで呼び戻されたので、大学病院に入職して10ヶ月で福岡に戻ったんです。その後、助産師としての経験を重ねていくのですが、30代のはじめくらいは、無事に産めればそれでよし、というくらいの気持ちでいたんですよ。でも、お産の向こう側にあることを知るにつれて、そこに留まっていてはいけないと思うようになっていきました。
「お産の向こう側」とはどういうことでしょうか。
女性や子どもの人生に強い影響を及ぼす出来事だということですね。産褥入院も以前からやっているんですが、病院で出産して産後うつになってしまった女性のお世話をする機会を通して、お産という経験が、どれだけ女性にとって切実かということを思い知りました。
つらいのは短い間だけだから我慢して忘れてしまえばいいと思って、やり過ごそうとする人もたくさんいらっしゃると思うんです。でも、人生でたった何度かのお産の経験を、女性は死ぬまで忘れないですよ。そのときは、無事に産めたからよかったって思い込もうとするんだけど、嫌だった記憶がじわじわくる。前頭葉で理解しようとするんだけど、本能は傷ついているんですよね。
福岡に戻られた1980年代は、あらたな出産方法が全国に広まりつつあった頃ですよね。
福岡に戻ってきて数年経った頃に、ラマーズ法とかソフロロジーとか、いろんな出産方法が出てきてたんですけど、どうもフィットしない感じがあったんです。それで、1989年にジャネット・バラスカスさんが書いた『アクティブ・バース』という本が翻訳出版されて、訳者である菊池栄さんが助産師向けのセミナーを開いていて、そこに受講生として参加したんです。そこで出会った一枚の写真に、雷に打たれたようになってしまって。その出会いが転機になりました。