#008 原田麻以さん インタビュー
ちいさな声に耳を澄まして
原田麻以さんは、3.11後、福島の厳しい状況をなんとかしたいと単身東北に移り住み活動されてきました。ちいさな赤ん坊を抱えて、うろたえるしかなかったわたしには、原田さんの決断が、とてもまぶしく感じられて、いつかお話を聞いてみたいと思っていました。日常を根こそぎ奪われてしまったかのような「まち」で、どんなことを受け止め、今どんなことを感じているのか―。
新しい日常を生き抜くために、まずは足元をよく見つめ、日々の選択をもう一度問い直すことから始めたい。
1. 自分のこととして考える
― 東日本大震災の後、活動拠点を大阪から福島に移された経緯を教えてください。
原田:2011年3月11日以降で、最初に東北へ伺ったのは2011年6月でした。宮城県でボランティアをしている知人の手伝いをするために一週間ほど、そのうち半分を宮城県、半分を福島県ですごしました。そのときに、三日程度の滞在であれば問題ないだろうとマスクやこれといった対策もせずに過ごしたのですが、福島から戻ってすぐに体調の変化を感じました。放射線の影響は個人差があるようなのですが、わたしは放射線の感受性が高かったようですね。例えば、福島の駅に降り立ったらどーんという感じで身体が重くなります。それ以外にも口内炎ができたり、肌が荒れたり、めまい、頭痛がしたりといろいろでした。6月の滞在後は、自分の体調の変化に動揺しましたし、福島に暮らしている人たちのことを思うと不安と焦りでいっぱいでした。当初は、自分が福島に行くことは健康上のリスクを考えると難しいのではないかと感じて、福島に頻繁に入るやり方ではないサポートの方法を探っていました。いろいろな方に相談に乗っていただいて。悩んだ末に、現地に入って活動することを決め、9月に拠点を移しました。被曝リスクを軽減するために、仙台から日々一時間かけて福島に通っていました。
― 福島では、どんな活動に関わられていたんですか。
原田:「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の事務所に通いながら、運営のお手伝いをしていました。市民活動が少なく、他に大きく放射能の問題に関わる組織がなかったので、この組織のサポートが福島の問題を改善するために大切だと思いました。県外から急にやってきた若者のわたしにできることはごく限られているので、組織を通してそこに出入りする人と出会い、そこから何ができるかを模索しました。ただ、当時は事務所にいても、取材の方や外部から訪問して来られる方は多いんですが、「ふつうの市民」の姿があまり見えなかったんですね。悩みをもっている方は、たくさんおられるはずなのに、なかなか出会えなかったし、つながる場がないと感じていました。そこで、気軽に集まって話をできるような場を定期的に設けることを福島で出会った人たちと一緒に考え、「ふくしまのいどばたから」という企画を立ち上げました。顔を合わせて話をきいて、はじめて見えてくることがありますし、移り住まなければできなかったこと、感じられなかったことがたくさんありました。手触りを感じられる距離で物事を進めていくことが性格的に自分にあっていたのだと思います。
― 東北に移り住む前に大阪で携わられていた活動について教えて下さい。
原田:大阪市西成区にある日雇労働者のまち、通称「釜ヶ崎」に拠点を持つ「NPO法人こえとことばとこころの部屋(通称ココルーム)」のスタッフとして活動していました。釜ヶ崎は地図にはないまちで、面積0.62平方キロメートルのちいさな場所です。高度経済成長期に全国から日雇労働者が集められ、日本の発展を底辺で支え続けてきました。単身の高齢者や生活保護受給者、野宿生活をしている人も多く、過酷な労働やくらしの不安定さなどから、なんらかのトラブルを抱えている人が多くいます。そういう成長の裏の「ひずみ」のような部分を一手に引き受けてきたまちの商店街に面したオープンスペース「カマン!メディアセンター」で、ささやかな表現活動を行なっていました。俳句会や絵を描く会を日常的に行ったり、道行く人の要望や、集まった人たちでこれをやろう!というものがあればやってみたり。パソコンをみんなで教え合う会とか、にがおえ会とか、釜ヶ崎についての勉強会とか、とにかくいろんなことをやっていました。それとは別に、アーティスト、天文学者、法律家、就労支援やこども支援のプロなど、さまざまな分野の専門家の方に来てもらい、おしゃべりしながらの相談会やワークショップなども実施したりしました。
― 大阪から福島を見ていて、どんなことを感じていましたか。
原田:物理的な距離もありますが、それにしてもなぜこれだけのことが起こって、これほどまでに福島の状況が見えないのか、情報が耳に入ってこないのかと、悶々としていましたね。実際に福島に行ってみると、福島の状況と釜ヶ崎の状況がとても似ていると感じました。両方とも「閉ざされて」いて、そこにメディアが関わっているんですよね。釜ヶ崎は、メディアが労働者を偏ったかたちで取り上げ続けてきたことによって、いまでも多くの人から「あぶないから行ってはいけないところ」と言われ、人の往来が少ない、閉ざされ続けてきた場所でした。閉ざされたことで、内と外との分断、内部での分断といろいろな問題が起きていきます。それと同じように震災直後の福島も、放射能の問題から、とにかく人の出入りが少ない。宮城では数日の滞在期間でも、サポートのために全国から集まったNPOやNGOの方に出会いましたが、福島では出会うことがありませんでした。人の行き来が少なくなると情報の行き来が少なくなり、現場で何が起こっているのかがわかりにくくなっていきます。そこにつけ込むかたちで大手メディアや行政、専門家と呼ばれる一部の人たちも偏った情報を発信していたと思います。情報の偏りは混乱を生み、本当は一緒にこの局面を乗り越えていくべき市民同士が、立場の違いや考え方の違いなどささいなことで分断されていくような状況があったと思います。そういったところも釜ヶ崎の状況と似ていました。大変な状況に出会うと自分のこととして回収してしまうくせがあって、今回も福島の厳しい状況を見て他人事とは思えなかったし、いてもたってもいられなかったですね。