小学校2年生の娘の学校では、生活科の授業の一貫で、いきものを飼っています。
みんな思い思いのいきものを捕まえ、学校に持ち寄って育てています。
娘はお友達4人でテントウムシを育てていて、この週末初めてテントウムシを持ち帰ってきました。
(週末は家庭に持ち帰ってお世話をすることになっている)
ところが、なんと全てのテントウムシを死なせてしまったのです。
机の上に放置されていることを、私も横目には見ていたのですが、気がついた時には全滅。
娘に聞くと、テントウムシがアブラムシを食べるという知識はあったそうなのですが、自分でアブラムシを取ってきて食べさせるということまではきちんと理解できていなかった様子。
死なせてしまった背景は理解できたとして、私がとても気になったのは娘のテントウムシへの態度です。
テントウムシがかわいそうという感覚はあまりないようで、それよりも自分の失敗によって今後起こることへの不安に囚われている様子でした。
「だってアブラムシ見たことないし、どこにいるかわからないもん」
「テントウムシはすぐに死ぬんだよ」 (だからたいしたことじゃないというニュアンス)
言葉の端々に現れる正当化の数々。
いやいや!と正論ぶつけたい気持ちをグッと堪えて、まずは、どう思っているのか、どうしようとしているのかについて聞いてみました。
・実はテントウムシに触れない
・家に連れて帰ってもお世話できないことを薄々感じつつ、順番が来たから仕方なく連れ帰ってきた
・お友達に事態を伝えたくない(できればそっと元の場所に置きたい)
要するに、娘は責任を引き受ける準備ができないままテントウムシを連れて帰り、その結果、テントウムシを死なせてしまったのです。
テントウムシが死んでしまったことで、テントウムシチームの一員としての責任には気づきつつあるものの、まだテントウムシへの責任については気がついていない様子でした。
お友達はきっと悲しむだろうね。
エサをあげなかったことは事実だから、きちんと謝って伝えた方がいいと思うよ。
という話をして
「ところでテントウムシはどうだったんだろうね?」と聞いてみました。
すると娘は
「私、もう、いきものは飼わない。お世話なんてめんどくさいし、死んだことを説明する責任なんてつらいもの。」
まだテントウムシへの責任については想像できていない様子でした。
そこでもう一歩踏み込んで問い掛けてみました。
「テントウムシはカゴに入れられて、自分ではエサを捕まえられないのに、エサをもらえなくて死んでしまった。それなのに、お世話がめんどくさい、責任を負うのが辛いと言われてどんな気分だろうね?もしあなたが、私から、お世話めんどくさいからもうごはんあげるのやめよう。でも死んだ責任を負わされるのは嫌だなと言われたら、どう感じる?」
娘は静かに泣きだし、もう一度
「やっぱり私には、いきものは飼えない。お世話をできる自信がないし、死ぬかもしれないいきものを飼うなんてできない。」と、今度はきっぱりと言いました。
え?
私は、何故かその返答にとても動揺してしまいました。
「かわいそう」
「大切にお世話しなくてはいけなかった」
「今度はもっと大切に育てよう」
そんな返答を期待していたことに気がつきました。
でも、もしかしたら、娘の言うような結論もあるのかもしれないと、ふと思いました。
「いきものを愛しなさい」と強制することは、決してできません。
そもそも、いきものを愛するとは、どういうことでしょう?
蚊は殺してもよくて、テントウムシは生かすために世話をしなければならない存在?
いやいや、もしもゲージに入れさえしなければ、自分の力で生きていけたテントウムシではなかったのか?
飼うという行為は、愛情という名のもと、“善意の支配下”に置くこと、とも言えるのではないか?
大切なことは命を尊重することで、尊重の仕方には色んなやり方があるはずです。
だとすれば、飼うことから下りるという選択だってあるでしょう。
娘は明日、死んだテントウムシを学校に連れて行きます。
テントウムシチームのみんなに謝罪して、テントウムシチームを離れることを友達に伝えるそうです。
そして今後の生活科の授業では、一人だけ、いきものではなく、植物の世話と観察をするそうです。
きっとお友達や先生と一悶着あるでしょう。辛い思いもするでしょう。
テントウムシにはかわいそうなことをしてしまいましたが、それでも、私はとても良い経験になったと思っています。
(今回のこの1回で何かを学ぶ、という単純な話ではないとも思っています)
生き物との関係、生き物への態度は、「生き物は大切」「命は大切」で単純に割り切れるものではありません。
衛生や食料を脅かす生き物と闘わなければならないこともあります。
ペットを飼う行為の裏には、ペットショップなど“命の商業化”の問題も潜んでいます。
手塩にかけてかわいがることが善で、殺すことが悪。
命はそんな単純なものではありませんし、事実大人になった私でさえも答えを決めかねていることがたくさんあります。
死んでカサカサになったテントウムシの感触、匂い。
リアルな死に触れる原体験なしには積み上げられない死生観があります。
しかも、そういった原体験は、幼い時にこそ積むべき、期間限定の経験ではないでしょうか?
どうか娘には、8匹のテントウムシの命を無駄にすることなく、しっかり傷つき、迷い、考えて、娘自身の手で、娘の思う正しさを手に入れて欲しいと思います。
(橋本)