上遠恵子さん講演再録「いのち」に軸足を置いて

2.『沈黙の春』の背景

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『沈黙の春』は、殺虫剤DDTのような「合成化学物質」の無分別な使用は、生態系を乱し生物環境の大規模な破壊をもたらし、それは人間の生命にも関わることになる、と警告したものでした。
なぜこのような本が書かれたのかというと、その背景には当時の戦争と、化学物質の関係がありました。第二次世界大戦のころ、戦場は非常に不潔な状態なのですね。そしてマラリヤにかかる兵隊さんもたくさんいたので、それを媒介する蚊を駆除するためにDDTが大量に使われるようになりました。ヨーロッパの戦場でも、発疹チフスを媒介するシラミを撲滅するために、やはりDDTが使われていました。とにかく戦争中は、すごくDDTが使われておりました。
そんな戦争が1945年に終わりました。すると、戦争のために使われていたたくさんのDDTがドッと市場に流れ出したわけです。農業、園芸、家庭用。日本にももちろん入ってきました。たぶん、みなさんのお母様たちはDDTをいっぱい撒かれたと思います。
戦争がいかに悲惨なものかということをちょっとみなさんに言いたいからこういう風に話すのですけれども、戦争が終わったときの日本は、まさに今の、紛争地帯の難民たちの生活みたいなもので、一面の焼け野原。ところどころにバラックだけが建っている、食べ物もない。それで汚れた着物を着て、シラミもノミもたくさん。電車で隣のひとの肩にシラミが這っていたなどの経験が私もありますけれど、そういう状態でした。
だからDDTがアメリカから、「これは殺虫剤です、よく効きます」って入ってきたら、皆飛びついたわけです。ほんとうにドラマチックに効きました。
農業でも同じ。戦争が終わったあと、日本の農業は不作が続いていました。外地にいた日本人、それから兵隊さんたちがみんな帰ってきますから、人口は増えてきた、けれどお米が足りなくてね。害虫は出るし、稲の病気が出て、不作だった。そういうときにアメリカから、合成農薬のDDTが入ってきてとても効いたので、みんな、「奇跡のクスリ」だと、大歓迎しました。
けれどもそんな風にアメリカでも日本でも「農業にとても効くよ!」と言っていたものが、みなさんもご承知のとおり化学物質は段々蓄積されてくるといろいろな弊害が出てきます。害虫は抵抗性ができて、効かなくなってくる。あるいは害虫を食べる「天敵」と呼ばれる益虫までも殺してしまって、自然界のバランス、生態系が崩れてしまう。そして最終的に人間の健康にも影響があるということが分かってきました。
みなさんも、理科の時間に「食物連鎖」という言葉を聞かれたことがあると思います。水のなかで言えば、植物プランクトンが動物プランクトンに食べられ、それを小魚が食べ、小魚を中魚が食べて、そして、だんだん大きな魚に食べられるという流れです。そしてその魚を水鳥や、鷲のような猛禽類が食べる。そうすると、最初に一個入っていた毒は、食物連鎖の頂点に行くころには2000倍くらいに濃縮されてしまう。「生物濃縮」ですね。その結果、私たちのからだのなかにどれだけのものが入ってしまうのでしょう、というようなことを、警告したのがこの『沈黙の春』です。

Profile

上遠恵子
1929年生まれ。エッセイスト、レイチェル・カーソン日本協会会長。東京大学農学部農芸化学科研究室、社団法人日本農芸化学会、植物科学調節学会勤務を経て、88年レイチェル・カーソン日本協会を設立。訳書にレイチェル・カーソン著『センス・オブ・ワンダー』、『潮風の下で』、『海辺』などがある。