#015 伊藤保子さん

だから、明日を考える

#015 伊藤保子さんインタビュー

伊藤さんに初めてお会いしたのは小規模保育協議会開催の勉強会でした。グループに分かれて自己紹介や質疑応答をする際に、私が座っていたテーブルに協議会の理事として同席されていました。そこでの会話の中で「既存制度は脇に、自分が必要だと思うものをまずやってみるというやり方もあるわよ。私も自分の私怨(!)をエンジンに手探りで保育園を始めたのよ。」と、少し過激な発言をあくまでも朗らかにおっしゃったことが印象的でした。
伊藤さんは18年前、地域の専業主婦有志で横浜市瀬谷区に保育園を起こし、その後も地域のニーズに応えた様々な子育て支援事業をされています。保育園、地域の子育て支援施設、学童の運営に加え、ヘルパー派遣事業などその事業内容は多岐にわたります。また瀬谷地域の子育て支援だけでなく、法人施設の一部を福島の方々に保養施設として開放していたり、法人の中で様々なプロジェクトが動いています。
伊藤さんがどんな想いで子育て支援に取り組まれているのか、そして立ち上げ当初に抱えていた“私怨”とは何だったのか、じっくりとお話を伺いました。

1.地域の普通の母親として

-まずは伊藤さんが起業された理由からお話いただけますか。

伊藤:初めにお伝えしておくと、子どものために何かしたいという想いから始まった事業じゃないんだけど、私にインタビューして大丈夫かしら(笑)私たちが子育てしていた70年代ってものすごく閉塞的だったの。私が大学を出たのが76年。先に教育が男女平等になって大学の門戸が開かれたのだけど、70年代って専業主婦率が70%1くらいだから女性はほぼ家庭に入っていた。結婚当初、私は静岡で働いていて夫は東京で働いていたので、結婚するためにはどちらかが職を辞めるしかなかったのだけど、どちらが辞めるかという話もなく、当然自分が辞めて行くとしか当時の自分には考えられなかった。それで私も結婚を機に専業主婦になりました。で、子どもができて子育てをしていた。子育て中は、私自身が母親として必要とされているし、自分のアイデンティティはそれなりにあった。でも子どもが成長して小学校中学校に行くと自分の周りに時間だけが残っていく。私たちはそういう世代だったの。そんな世代の私たちが、生活クラブ生協2というところで顔を合わせてしまった。
自分のこと、家族のことばっかり考える生活をしてきて、社会とのつながりに飢えていたから、生活クラブで色んな事を学んで、自分の頭でもの考えることがだんだんできるようになって楽しかった。その仲間たちで、子どもたちが小学校高学年になった頃に「自分たちがこの町の一員として住んでいた証を何か残したいね」という話になったの。
最初の一年間は毎月一回集まって、どんなことをすれば自分たちがここに存在した証を残せるかって議論をしていた。その頃は私たちが社会に出てから10年くらいたっていて、男女雇用機会均等法が施工されていた。採用や待遇において男女を差別してはいけないことになってはいたけれど、実際には女性は介護や育児があって、本当に強い意志を持って仕事をしたいと思っている人でない限り退職していたの。実態はわたしたちが子育てしていた10年前とあまり変わっていないのではないかと気がつき、保育園があれば働いている人の役に立てるのではと考え始めました。ちょうどその頃横浜市が横浜保育室を始めるという話が入ってきて、しかも事業実績がなくても手を上げられる、と。じゃあ保育園をやろう!と決めたの。子どものためにっていう始まりじゃなかったのよ。

-地域の専業主婦たちが保育園を立ち上げる…一体どんな風に進んでいったのでしょう?

伊藤:まずはどんな保育園がいいだろうと、自分たちが育児でどんなことに困ったかを洗い出してみたの。そしたら出るわ!出るわ!でも普通の地域のお母さんの経験や感覚で考えたから、保育業界の人が思いつかなかったことができた。
例えば保育料。横浜保育室のモデルは、親から58000円保育料をもらって不足分を市からもらうモデル。でも普通に考えたら、週4日6時間預けるパートのお母さんも週6日11時間預けるフルタイムのお母さんも同じ金額払うって不公平じゃない。パートの稼ぎって月5,6万なのに58000円の保育料を払うとなると、果たしてパートに出るのか?って。そこで私たちは、当時そういう仕組みはなかったのだけど、利用日数と時間ごとに保育料を設定したの。そうしたら働こうと思う人がこのエリアでどんどん出てきてあっという間に保育園がいっぱいになってしまった。横浜市からは「待機児童を解消するはずが、ニーズを掘り起こしている」って言われた(笑)。
それから保育園から地域の幼稚園に通える仕組みも作った。自分たちは専業主婦だったから子どもを幼稚園に通わせていたのだけど、幼稚園は子どもの性格や特徴によって、この子はこの園に、と選ぶことができる。でも保育園は望むところになかなか入れない。それっておかしいよねって。じゃあ希望者は保育園から幼稚園に通ってもらうのはどうだろう?と考えた。幼稚園に聞いたら「いいですね」って、園バスが保育園に来てくれることになり、お兄ちゃんお姉ちゃんは、小さい子たちに見送られて、日中幼稚園に通うこともできるようになった。
それで今度は、日中幼児がいない時間に、地域の親子を保育園で預かる“親子ルーム“という事業を始めた。その中で今度は、働いていない今のお母さんたちの子育ての現状が見えてきて、地域の子育てに必要なものがわかってきた。

-“自分たちがこの街にいた証を残すこと”から、“地域の課題解決”に視点が変わってきた。大きな変化ですね。

伊藤:ほら、仕事してると一皮ずつむけてくるでしょ。困ったことに対応するごとにふてぶてしくなっていく(笑)

-分かります(笑)

伊藤:経験値が上がれば見えるものが変わってくるのよ。
あるとき区からの依頼で、知的障害を持つお母さんの産前産後のケアを行ったことがあったの。このお母さんは、作業所で知り合った方との間に子どもができて結婚することになった。でも教育システムの中で、母親になるために必要な教育を受けていない。保健の授業で習うような知識が全くなかった。そこで本来産前産後ケアは家事や育児のサポートであって、お母さんに何かを指導するサービスではないのだけど、区の担当職員の英断で、産前産後ケアの20回を使って、お母さんに赤ちゃんの抱き方、おしめの替え方、ミルクの作り方、沐浴などを教えることになった。お母さんは知的障害はあったけれど、赤ちゃんに対する深い愛情があって、泣けば抱き、ミルク作りや沐浴も本当に一生懸命に学んだ。ベテランの職員と一緒に二人三脚で子どものケアのやり方を学んでもらい、20回の訪問で職員とお母さんの間にしっかり信頼関係も築くことができた。でも産前産後ケアは20回までしか使えない。ほんのちょっとひねったら死んでしまうような赤ちゃんの時から一緒に子育てしてきて、お母さんの成長もずっとそばで見てきた。だけど使える制度がないから次に託さなければならなかったの。このお母さんが育児のスキルを習得するための支援は、知的障害者の自立支援なので、自立支援ヘルパー派遣の事業者でないと関われなかった。このことが私たちにはとっても心残りだった。

-それは心残りですね…

伊藤:もちろんボランタリーにやるということもできなくはなかったけれど、それでは継続性がない。今後同じようなケースがあっても対応できない。そこで障害者の自立支援ヘルパー派遣事業者の登録をしたの。この8月に(2014年8月)にようやく準備が整って、今後はそういったケースにも対応できるようになった。
こんな風に私たちの事業は、自分たちが提供して失敗したこと足りなかったことを、同じ女性として、子どもを育てる親として、普通の地域の人として考えることで広げてきた。行政マンが制度設計するのとは違う、普通の感覚で起こっている矛盾を見て、パズルを埋めるみたいに広げてきたの。事業計画ありきじゃなく、ある意味行き当たりばったりに。

  1. サラリーマンの妻の専業主婦率は1970年時点で62%だが、子育て世代に限ればもっと高い数値だったことが推測される
  2. 地域の自治組織を基盤に成り立つ事業組織で、会員は食品や日用雑貨の購入だけでなく、社会問題に関するプロジェクトにも参加することができる。「自ら考え、自ら行動する」ことを大切にしている組織

Profile


伊藤保子さん
特定非営利活動法人さくらんぼ理事長。横浜市で小規模保育を中心に6園の保育室を運営。その他にも瀬谷区地域子育て支援拠点「にこてらす」や派遣事業「子育てなんくる応援団」など、様々なやり方で地域の子育て支援に携わっている。全国小規模保育協議会の理事も務めている。

特定非営利活動法人さくらんぼ
http://www.sakuranbo.or.jp/