#012 多田千尋さん

2.生きることは遊ぶこと

—「ブランコ」のように、もとは宗教儀礼で使われていたものから生まれたとされるおもちゃもありますね。

多田:うん、いろんな成り立ちがありますよ、おもちゃは。ブランコはおそらく、大人が儀式に使っていたのを子どもが見て、「何を楽しそうなことをやっているんだろう」って、だんだんと子どもの世界に「下りて」きたと考えられますよね。
あとは、埴輪とかね。あれも私はおもちゃじゃないかなって見ているんです。だって、まるっきり一緒でしょう?、「寂しくないように」って、寝る前にぬいぐるみでベッドを囲む子どもの行動と、お墓に埴輪を囲むのって。あれはまさしく「ヒーリングトイ」ですよ。
一方で、2000年前の子どもだってきっと、河原の石をおもちゃにして遊んでいたはずなんです。おもちゃって、じつに「暮らし」に近いところにある存在だと思うんです。

おもちゃの森

—これまで漠然としたイメージで、「遊んでいる時間」というのは、日常から切り離された「聖域」のような存在なのかな、と思っていました。でも、おもちゃが生活道具である、ということは、日常の延長線上に遊びがある、ということでしょうか。

多田:たぶん、遊んでいるほうが日常なんじゃないかな。

—!!。 それは、子どもにとってですか?

多田:いや、人間にとって。本来、人間的である行為行動というのは、遊びのほうかもしれないですよ。だから働いてるとやたらとストレス感じちゃったりとか、いやになっちゃったりするんじゃない? それは、そっちが非日常だからでしょう。でも、生活するためには遊びばっかりやってるわけにいかないから、たまにはちょっとがまんして、働いてるっていうことで。

—そうすると、遊ぶことが何か社会生活の役に立つ、とか、そういうことを考えること自体がおかしなことになってきますね。

多田:どちらから見るか、ということもあるよね。たしかに遊ぶことが、ひいてはいつか仕事のなかで役に立つことがあるかもしれない。親戚づきあいを円滑に進められるコミュニケーション能力が身についていることもあるかもしれないし、集中力の鍛錬になっているかもしれないけれど…。

—それはあくまで副産物である。

多田:そう、まさに副産物。何かのために遊ぶなんて、ばかばかしいことだから。
そして、おもちゃはあくまでも「遊び」を支える脇役。おもちゃに関心を抱くと、おもちゃのほうを主人公に語りたがる人がたくさん出てくるんだけど、主人公は「遊び」そのものだよね。だって、台所でごはんを作るにしたって、料理をするひとの腕前が大切なわけで、包丁はただそこで使う道具のひとつでしょう。素晴らしく良い包丁があったからって、全員が料理上手になるわけではない。道具のクオリティに差はあるけれど、最後は使う人次第。

—そういう意味でも、おもちゃは「生活道具」なんですね。

多田:だからこそ、そもそもおもちゃに多大なる期待をもっちゃいけないんです。このおもちゃを買えば○○になる、なんて言い始めるとね、ヨーロッパのおもちゃじゃなきゃいけないとか、知育なんて言葉を使い始めたりね、右脳を刺激するとか、わけのわからないことを信じちゃったりね。そうやっておもちゃのほうを過大評価しようとしてしまうけれど、それは違う。
私は、教育玩具とか知育玩具とかっていう言葉は、基本的に使っていないんです。使わないんです。そういうのってないと思ってるから。

Profile

多田 千尋(ただ ちひろ)1961年東京生まれ。明治大学卒業後、ロシア・プーシキン大学に留学し、幼児教育、児童文化を学ぶ。芸術教育研究所所長、東京おもちゃ美術館館長、高齢者アクティビティ開発センターの代表を務めるほか、認定NPO法人日本グッド・トイ委員会理事長、早稲田大学福祉文化論講師でもある。著書は『遊びが育てる世代間交流』『世界の玩具辞典』など多数。