出生前診断を考える

妊婦の血液を調べることで胎児に染色体の異常がないかどうか99%の確率で分かるとされる新たな出生前診断が、9月から東京の2つの病院で始まることになったことを新聞で知りました。出生前診断については、お産でお世話になった明日香医院の大野明子先生の著書『子どもを選ばないことを選ぶ』を読んだことをきっかけにはっきりと疑問に持つようになり、その動向を注視してきました。

このニュースを見て、ちょうど1年前にスクラップしていた新聞記事を思い出しました。出生前診断の結果による人工妊娠中絶が20年で6倍になったことを伝える記事です。この記事が示しているのは、出生前診断の先にあるのは中絶だという明らかな事実です。出生前診断を受けるということがどういうことなのか、その重みを感じる前に、女性たちは診断を受け、少ない情報のなかで悩み葛藤し、結果、生命を排除することを選んでしまう。

私自身はどうだったかというと、新しい生命がやってきたときに、ネガティブな想像はしませんでした。お産で死ぬなんてことはない、と思っていました。それは、どこか「操作」できる対象として、医療の側のものとして、お産を捉えていたからだと思います。もしわたしが35歳以上で出産を迎えたとして、医療者に診断を勧められたとしたら、おそらくその選択肢について真剣に考えることになったと思います。出生前診断で発見できる染色体異常のなかで最も頻度の高いダウン症の35歳での発生率は300人に1人、そして年齢が高くなるにつれてその割合も増えていきます。そうした事実を並べられて、説明されたらどうでしょう。そのことが何を示しているのか、冷静に見極めることができるでしょうか。

その決断の引き金になっているのは、偏見や無知、周囲からの重圧、さまざまなものがあると思います。障害のある子どもやダウン症の子どもたちとの出会いがないから、どんな暮らしになるのか想像がつかない。想像できないことは恐いという思考回路。それから、障害を持って生まれてきたら家族だけで抱えなければならないという恐れ。それは、そのまま国への不信、社会連帯の欠如を意味しているように思います。

 

出生前診断が広まることで誰が得をするのでしょう。国側から見れば、生命を選ぶことを個人の責任に帰すことで、本来生まれてくるべきハンディのある子どもたちを減らし、社会保障費を節約することができます。そして、検査会社。9月から実施される病院での費用は、保険適用外ということもあって21万円かかるそうです。検査会社から見ると大きな利益を生むので、もっと広めたいはずです。もしかしたら、一部の医療者にとっては、訴訟リスクが減るというメリットがあるかもしれません。

自己責任、子どもは家族で育てるもの、という認識の先に「生命の選択」があるという事実。いまの社会の中で生きづらいかもしれない人を排除するということは、そのまま私たちの生きづらさを加速させることにつながります。誰もがその人らしく生きられる社会でないことの方がおかしいのだから、そのことに異議を申し立て、変えていくための議論をしなくてはならないのに、生命の選択を自己責任の名の元に個人に引き受けさせるなんて、どうにも納得がいきません。

 

おなかの中の赤ちゃんは日々育っていきます。胎動しはじめると、自分とは別の生命の重みをさらに実感できるようになります。自分の身体で起こっていることを受け止め続ける中で、お産は人間の持つ最後の自然ではないかと思うようになりました。

もしかすると、生まれてくることができないかもしれない。もしかすると、赤ちゃんは死んでしまうかもしれない。もしかすると、わたしはお産で死ぬかもしれない。もしかすると、赤ちゃんに障害があるかもしれない。頭にうかぶ「もしも」をひとつずつ取り出して向き合ったことで、「赤ちゃんは命がけで生まれてくるのだから、わたしも自分の命をかけて赤ちゃんを産もう。そして、赤ちゃんのそのままを受けとめよう」と決心することができました。その気持ちを持てたことで、子育ての中でも、子どもと向き合う態度になんらか反映されているような気がします。

社会全体で子どもを育てるために、自分になにができるかをこれからも考えていきたいと思います。