なぜ「こどものカタチ」なのか?

あけましておめでとうございます!
昨年末にオープンした「こどものカタチ」も2010年からスタートです。
これから月に1つはインタビューをアップしていきます。それに加えて音声の配信や紙媒体の制作など、いろいろとやってみようと思ってますので、長い目で見ていただければうれしいです。

どうして「こどものカタチ」という名前にしたの?こどもにかたちなんてないのに。
と先日、友人にきかれたのですが、そのときはうまく答えられませんでした。
まだモヤモヤしているのですが、いま考えていることを書いておきます。

わたし自身、こどもをキーワードに仕事をしていることもあって、こどもに関する活動に携わっている人たちとたくさん出会ってきました。社会的な使命感を持っていたり、熱い想いを抱えていたり、よい方向へ進むためのものとして自分の活動を見いだしているという人たちが、全国各地にたくさんいるということ。そして、そうした人たちの日々の取り組みがこどもの環境をつくっていると気付かされる場面に何度も出会えたことはわたしにとって大きなことでした。

こどもを考えることは未来を考えることだと、ずっと思ってきたし今でもそう信じています。
でも、少し前から「こどものための」とされるものに多少の違和感を抱くようになりました。

「こどもたちのために」を合言葉に、こどもを対象としたプロジェクトやワークショップが全国各地で氾濫している現状はますます加速していますが、その合言葉の下に、内容を問われたり、疑問視されたりすることなく、丸ごと良いこととして語られる風潮があるように思います。そして、大人の希望や不安を反映させたこどものための企画や、消費者としてのこどもを取り込もうという企業の思惑。よく目を凝らすと、そうしたものがその裏側に見えてきます。ワークショップひとつとって見てみても、大人が期待するこどもに焦点をあてて、考えられているものが多すぎる。いろんなものがあっていいと思うけれど、あまりにも偏っているようにわたしには思えます。

なぜ、そうなったのかーその理由を考えたときに、そこで語られているこどもがいつも見えない存在だということに思い当たりました。存在が捉えられないから、ある種の幻想を産んでいき、問題点を見えなくしているといってもいいかもしれません。

なぜこどもでなければならないのか?
こどもとはどういう存在なのか?
こどもと大人との境界線はどこにあるのか?
そんなことを考えはじめると、どんどんこどもは見えないものになっていきます。

自分自身の体験に照らし合わせて言えば、何かものをつくったり、深く考える時に、こどもの頃に培った感覚とか、遊びなどが、かなり強く影響していると感じます。言い換えれば、わたしに影響を与えている「こども」とは、わたしの「原形」なのだと思います。

こどもというものが全ての人の中にある『原形』だと考えるならば、そこに何か大切なことが隠されているのではないか。共有できることがあるのではないか。そう考えて、このインタビューサイトを「こどものカタチ」と名付けました。個々人の中で「こども」がどんなふうに育まれて、どんなふうにその人自身に影響しているのか、また、こどもに関わる際に必要な姿勢とはどんなものなのか。そうしたことを広い意味でこどもの環境をつくっている人の言葉の中に見つけられたらと思っています。

モヤモヤしていることを言葉にすることは、とても難しいです。
でも、モヤモヤもそのままに、ひとつひとつのインタビューが疑問符として届いていけばいいなと思っています。

次回インタビュー第3弾は、メリーゴーランド京都店店長の鈴木潤さんにお話を伺っています。
1月下旬にアップする予定ですので、お楽しみに。