馬先生とわたし

1年半前から、馬先生に弟子入りしました。時折休みながらも、およそ二週間に一度のペースで牧場に家族で通うように。
これまで、かなり多くのことを馬先生から学んでおり、これはもしかすると、人生で必要なことはほとんど、馬先生と子どもに学べばOKではないかと思うくらい、とてつもなく深いことをじわじわ得ています。記録しておきたいな、と思いながら全く書けていなかったので、時々ここに書いていきたいと思います。

最近の馬先生からの学びとしては、メタ的には「恐れ」が今のわたしのテーマで、行為的には、「軽速足(けはやあし)」という動きの時に、手綱をゆるっともった状態を継続できるかどうかに挑戦中、ということになります。ガイドといって、鞍(くら)についている、電車で言うと吊り輪的なものをつかんでしまうのですが、本当はガイドがなくても、身体の中心が馬とあっていれば、落馬しないはずなのです。ただ、恐れからガイドを手放せないという状況になっているのです。
実際に起きてもいないこと(落馬)を想像して、ガイドを手放せない。しかし、ゆっくりと恐れを取り払うようにイメージして、「軽速足(けはやあし)」を継続しながらじわじわイメージを膨らませていくと、ガイドを手放せる瞬間がやってきます。ガイドを手離して、手綱だけゆるっともった状態は結構不安定。でも、その恐れを手放した状態のほうが、ずっと身体が解き放たれた感覚を得られます。

馬先生は、ただ走っているだけなんだけど、わたしは馬先生の動きに集中しています。集中すると、馬先生の動きに自分の動きを時々合わせることができることに気付いていきます。自分の動きと馬先生の動きとがあってくると、「軽速足(けはやあし)」が、これまでと全く異なる体験となります。お尻がまず馬先生の背中に当たらない、ふわふわと空中を漂っているような感覚です。馬先生の力によって、わたしが動き、わたしが動くことで馬先生が動く。うまく伝えられませんが、これが「他力」というものなのかな?と。まだわからないのですが、なんとなく入り口に立たせてもらっている感じがしています。

「恐れ」の感情は、仕事の上でもいろんな影響を及ぼします。ストレスとは「恐れ」である、と先日マインドフルネスとセルフマネジメントについてのセミナーでも教わったばかりでした。ストレスやプレッシャーを感じて、意識の質が低下することがあるなあと最近感じていて、その恐れの源に何があるのか、じっくり見つめなおす作業をしているところに、この馬先生の教えです。何も起きていないのに、これまでの記憶や経験から「恐れ」の感情を引き起こし、それを意識しない状態のまま思考が硬直化し、柔軟さにかける判断をしてしまうことは誰しもあるのではないかと思います。「恐れ」を意識することができれば、それだけでだいぶ判断が異なってくるはずです。子どもたちを見ていると、羨ましいほど恐れ知らずで、ガイドなど最初からなかったように手綱ゆるっと状態で乗ることができています。「恐れ」という概念そのものがないから、自然体で乗ることができている。もしくは、馬先生に近い存在だから、自然体でいられるのか。いずれにせよ、子どもには叶わないと改めて思うのでした。

(遠藤)