バトンをつないで

 

レストランで、1歳くらいの子どもがピョコピョコ歩き回っていて、まぁ可愛いと思って見ていたら、隣に座っていたおじさんが「うるせぇ!」「なんとかしろよ!このガキ!」と大声で怒鳴った。
ピョコピョコちゃんのお母さんは離れた席に座っていて、兄弟の世話で大変そうでとても手がまわらない様子だし、ひとまずピョコピョコちゃんを抱き上げて歌ってあげてたらピョコピョコちゃんは落ち着いた。
あまりにおじさんの暴言に頭にきたので、怒鳴らなくても解決の方法はあることと、それでもどうしても怒りがおさまらないなら正々堂々と面と向かって怒鳴ってきたらいいって伝えたら、おじさんをますます怒らせてしまった(゚o゚;;
さすがに、おじさんのことは抱っこして歌うこともできないし、結局何の解決にもならず…
こんな些細な出来事でさえもどうすることもできない自分の未熟さを痛感……

 

先日、友人がFacebookに投稿していた、この出来事。その後、何人もの方がこのことに関してコメントしていて、みなさんどんなふうに考えられるのかなと思って見ていた。コメントしようかと迷いつつも、考えがまとまらなかったのですぐに書き込むことができなかった。
多くの人は、友人の行為に対して共感している。共感したり、賞賛するだけではなく「刺されたりするから気をつけて」と但し書きをつけている人も多かった。「よくあることだ」というような言葉も。それから「公共の場でのマナーを考えると、子どもを放置しておくのはいかがなものか」「お金を払って食事に来ているのだから、お店の人、他のお客も含めて考えるべきだ」というようなコメントも書かれていた。コメントを書かれている人たちは、みなさんとても丁寧な書き方をされていて好感が持てた。

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「物理力や権力の意図的な行使、脅迫か実施かを問わず、自己、他者、集団や共同体に対する。帰結として、傷害、死亡、心理的傷害、発達障害、剥奪が生ずるか、生ずる可能性が高い。」
暴力と健康に関するWHO報告書より World Report on Violence and Health(2002)
(CAPセンター・JAPAN発行「子どもへの暴力防止のための基礎講座」テキストより)

唐突だけれど、「暴力」とはこんなふうに定義されている。(定義を共有したところで、わかったようなわからないようなだけれど、とりあえず…)

おじさんは大声で子どもに怒鳴った。「暴力」というと、身体になんらかの影響をおよぼすものと考えてしまいがちだけれど、そうではない。人の心を傷つけることも、暴力だ。そしてそれは、大人側の意図とは関係がなく、子ども側にとってどうであるか、で判断される。おじさんの行為は、小さな子どもの立場に立って考えれば、間違いなく暴力だと、わたしは思う。こんなふうに「暴力」への解像度を上げていくと、その行為の持つ意味が少し違って見えてくるのではないかと思う。

そして、もう一つこの出来事から見えてくる大事なことは、子どもへのこうした行為が「よくあること」と思われていることではないか。フラフラと歩いている大人が例えばいたとして、同じように怒鳴ったとしたらどうだろう。大人にはしないのに、子どもにはする。嫌だなと思いながらも「よくあることだ」と見過ごす。わたしも含めて、多くの人が経験のあることだと思う。

理不尽に叩かれ、怒鳴られ、無視され、命令される。ただ「子ども」だというだけで、子どもたちは日常的にそういう扱いを受ける可能性が高い。暴力への脆弱性を抱えた存在とも言える。そして、大人たちがこうした行為を「よくあることだ」と思う、その背景には子どもへの「差別意識」があるのではないだろうか。子どもは、無力な存在。そう扱われてもしょうがない、と。「差別」なんて言うと、ちょっと仰々しく聞こえてしまいそうだけれど、内在化してしまって見えなくなっている、この心の動きを意識化することは、とても大事なことだと思う。わたし自身はどうか?と問われれば、まだはっきりとこの心の動きとさよならできていないと思う。それでも、日々できないことにもがきながらも、意識しようと、しなければと思い続けている。

この「暴力」に対して、「公共の場のマナーは守るべき」という正しさは、どのように位置づけられるべきなのだろう。わたしもわからない。わからないから友人の投稿に何もコメントできなかった。「マナーを守ることができないなら、外食は控えるべき」。その意見はわかりやすく正しい。でも、その正しさは、誰かを救うだろうか。

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友人が抱っこした子のお母さんは、わたし自身の姿でもある。仕事でへとへとになって、食事をつくる気力もない。もうだめだ、と弱音を吐きたくなるような夜、5歳と1歳の子どもを連れて近所の食堂やレストランに駆け込むことがある。迷惑をかけはしないか注意を払いながら、味もわからないくらいに急ぎ足で食べものを胃に流し込み、子どもの食事がスムーズに進むよう手伝う。それでも、誰かが用意してくれた、あったかいごはんを食べられることに幸せを感じる。おいしいねと笑う子どもの顔を見ると、今日もいい一日だったと思えてくる。子どもが生まれるまでは、外食にさほど特別なものを感じなかったけれど、いまは違う。それは、日々の綱渡りをなんとか乗り切るための大事な時間であり、支えにもなっているのだ。

だから、友人が「とっさ」に小さい子を抱き上げた。理屈ではない、その行為自体が、わたしはとても嬉しかった。そのことだけで、きっとその女性も子どもも、救われたのではないかと思う。他人の子を守るために抱き上げてくれる人がいること。歌ってあやしてくれる人がいること。それは生きたメッセージだ。メッセージを受け取れた人は、いつか次の人にバトンを渡す。そのバトンは、リレーされて、自分たちの子どもたちが親になった時に巡り巡って届くかもしれない。星が何百年もかけて瞬きを地球に届けるように、ほんのささやかな行為にも重力は作用する。そう信じて、バトンをつないでいくしか、ないんじゃないだろうか。

 

(遠藤)