全ての母たちが

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先日、レストランで隣りにあった、あるお母さん同士の会話を聞いていたら、子どもはまだ小学生にもなっていないらしいのに、スマートフォンやいじめ、勉強についていけるか、といった類の心配がどこまでも吹き出してくるようで止まらない。

0歳の子どもが10歳になった時、テクノロジーと(それに伴い)社会構造はいまと同じくらいの速度かそれ以上に加速度的に変化しているのではないかと思う。わたしたちの当たり前は通用しなくなるかもしれない。となると、大方の心配は無要な心配かもしれない。
例えば、隣からしゃしゃり出て、わたしがそう意見したとしても、彼女たちの心配は消えないだろう。なぜなら、わたしたちは未来を先取りするように散々訓練されてきたから。それはもうわたしたちの奥深くにセットされてしまっているから。

当の本人である子どもは、今この一瞬を生きているのに、その母は未来を生かされている。立っているところが違えば、当然に同じ景色を見ることなんてできるはずがないのに。

そんなことを考えていた時に、倉橋惣三さんの『育ての心』を久しぶりに開き、このページで手が止まった。

「子というものは親から教育を与えられたいなどとは願っていない。願っていることは、親その人を与えられたいということだ。親が欲しいのだ。親が味わいたいのだ。自分に生々しく触れてくる親の心を何よりも求めているのだ。家庭教育というとむずかしく、親の方からの言葉に偏するところがある。それよりも、子どもにとっての家庭は、ただもう親そのものが必要なのである。教育的お母さんは、わが子を教育しようと、こっちの考えのみに焦って、わが子の真に求むるものを与えない。

(中略)一体どうしてそういうことになるのだろうか。親心のない親はないのに、なぜそうしたことになるのだろうか。勿論その母の浅はかさ、或いは時に形式主義な性質によるのであるが、多分は、結果のよくなることに心を奪われるためであろう。よい子、えらい子にしたい。それはどの親にもあることであるが、その他に、わが子を育ててゆく途中も楽しみな筈である。それが感じられないのである。折角わが子と共に生活しつつ、その生活に触れてゆくことが、単に教育の方法としてのみ考えられて、それ以上に、もっと濃やかなところで味わえないのである。その証拠に、そういう親に限って、わが子の教育的結果を気にすることの如何に強烈なことか、自慢したがることか。なんだかまるで請負仕事でもしているように、出来上がりばかり気にしている。

しかも亦、なぜまた母をそういう風にさせるか。問題がここへくると、われわれの責任にもなってくるところがあるかも知れない。家庭教育の必要のみ説いて、家庭教育の味わいを語ること少なく、親の責任をのみ求めて、親の楽しみをいうこと少なく、子どもといえば教育の対象としてのみ眺めて、もっと普通の人間的ななまなましい対象として思うことの少ない、われわれの当世式科学主義にも、その一半の責任があるかも知れない。」

この本の初版は、昭和11年。いまから81年も前のこと。心配も不安も浅はかさも、いまに始まったことでなく、全ての母たちは、悩み葛藤しながらなんとか自分と折り合いをつけながらやってきたのだと思う。

「意味」も「価値」もなくていい。ましてや「評価」なんて。そんなものは、子どもの世界にないものだから。
今日一日、子どもと笑っていられればそれでいい。そんなふうではいけないと思い込んでいた自分を、子どもといる時間だけでいいから手放したい。少しでも手放せたらいいのにと思う。

◯『育ての心 上』
倉橋惣三著
フレーベル館刊

(遠藤)