夏休みの限界

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1ヶ月半の夏休みが終わろうとしていた8月31日の夜。
わたしは、育児放棄していた。

0歳と4歳を連れて外出し、デパートかどこかの遊び場で2人仲良く遊んでいたので、少しだけその場を離れた、と思ったらカフェで珈琲を飲んでいた。「はやく迎えにいかなくちゃ」という気持ちと「一人になりたい」という気持ちとの間で揺れ動きながら、どこか思考停止していた。我に返り、慌てて迎えに行ったがもう遊び場に子どもはおらず、預かり所のようなところに引き取りに行くが、詰問され引き渡してもらうことができず、泣きながら詫びていた。

夢の話だ。目覚めた時、心底ほっとしたのと同時にあまりの内容に呆然としてしまった。
何がわたしにこんな夢を見させたのだろう。思ったよりも楽しめたような気がしていたのに、意識しないようにしていただけで、心も身体も相当弱っていたのだろうか。それにしても、あの夢はない。ひどすぎる。いや、夏休みはただのきっかけだったのか、と頭の中で自問自答している。

実際、今よりもう少し状況が厳しかったとしたらどうだろう。ひとり親で、頼れる人も周りにいなくて、経済的にも厳しかったとしたら?
「夢の話」で済ませられる自信なんて、わたしにはひとかけらもない。
そうか。「もしかしたら、わたしも」という恐れが、こんな夢を見させたのかもしれない。

 

夢を見た日から、巻き戻すこと半月。印象に残る出来事が起きた。
朝食を終えて、子どもたちが部屋で遊びはじめた頃、外から子どもの声が聞こえてきた。

「だれかー、助けてください。だれか!助けてください!」

外に飛び出すと、道路で小学一年生の男の子が泣きじゃくっている。
「どうしたの?」と聞くと、「これが、動かないの」と携帯電話を差し出した。
家を出る時におかあさんにメールしなきゃいけないのに動かない、と。見るとダイヤルロックがかかっていたのがわかったので解除した。「これ(携帯)が動かないから、このまま家でテレビ、夜までずっと見てようかと思ったんだけど。ありがとうございます。」と泣きながら、途切れ途切れに話してくれる。それから、小学校に向かって、とぼとぼと歩き出した彼を、見えなくなるまで手を振って見送った。

朝、ひとりで家を出て、ちいさな足で多分歩いて30分くらいかかる小学校まで行き、小学校に併設されている学童保育(名称はいろいろあるようですが)で夜18時頃まで過ごして、おかあさんが迎えに来てくれて一緒に帰る、という繰り返し。学童保育がどんなところか、どんな人がいるのか、にもよるけれど、わたしの知る範囲では、あまり良い話を聞かないので、もしあの子の通うところもそうだとしたら、どれほど長い夏休みだっただろうか。そして多分、親も同じで、申し訳ないのと、心配な気持ちとが混ざり合いながらの一ヶ月半だったのではないか。

「夏休み」がはじまった頃と、社会も家庭も随分変わり、もうギリギリのところまで来ているのかもしれない。教室にクーラーが設置されて、夏休みが短縮された、というような話も聞くけど、そういう問題でもないだろう。暑い涼しいの問題でもなく、施設設置数の問題でもなく、もっと大きな枠組み、大人の働き方や子どもの権利を含めての議論が必要だと思う。

(遠藤)

◯インターネット上で見つけた参考になりそうな資料
学童保育の現状と課題(2014年)

2015年度全国学童保育実施状況調査結果についての報道発表(全国学童保育連絡協議会)