大事な人は増えていく

2歳の夏。福岡に引越してきてすぐの頃。

引越しまであと3日に迫った日曜日。友人宅に子どもたちを預けて、作業も追い込み。約束の時間に友人宅に迎えに行き、いよいよ別れの時間となる。「帰りたくない、まだ遊びたい」の一悶着後、やっと車に乗り込み走りだすと、後ろから水色のワンピースを着たEちゃんが「Yくーん」と言いながら、駆けてくる。Yも身を乗り出すようにして、手を振っている。二つ目の角を曲がったところでEちゃんは、走るのをやめた。バックミラーのEちゃんはどんどん小さくなっていく。三つ目の角を曲がると、姿はもう見えなくなった。

わたしは、その一部始終にぐっときてしまって、涙を拭いながら運転していると、後部座席のYが気付いて「おかあさん、泣いてるの?」と聞いてきた。「Eちゃん、Yくんの大事な友達になったんだなって思って。でも、もうなかなか会えなくなるから」と話すと、5歳は静かに言った。「だけど、また新しいところで、Eちゃんと同じくらい大事な友達ができるよ。いまはまだいなくても、できるよ。大事な人は、増えていくの。だから、おかあさん。泣かなくて、大丈夫」。

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先日、モンテッソーリ教育の集中講義に参加して「発達の4段階」と「愛着と分離」について学んだ。モンテッソーリは、人の発達を6年で一区切りするものと捉え、その6年の中に、「動の時代」と「静の時代」があり、その中にまた「愛着」と「分離」が入れ子状になって現れると考えた。そして、発達を直線ではなく、山と谷がある波型として図式化した。わたしが、おもしろいと思ったのは、一般的に大切だと言われる「愛着」と同列で「分離」も重要だとされていることだった。(2012年に参加したモンテッソーリ教育の実践研修会のレポートはこちら

人間にとって最初の「分離」は、誕生の時であり、その分離の経験が子どもにとってよい経験であれば、次の分離も上手く乗り越えることができる、という感じで、以前の体験をベースに、次の体験があると考えられている。子育てでは、「愛着」は大事だとされていても、「分離」については、なかなかフォーカスされないように思う。例えば、離乳もハイハイも一人歩きも、とても大切な「分離」で、子どもにとっては自由(可能性)への第一歩でもあるのだろう。しかし、大人は、この時どうしても自分の感情を挟んでしまう。わたしも経験したけれど、「分離はできるだけ遅いほうがいい、愛着が大事なのだから」などと考えてしまう。だけど、それは 本当に子どもの立場にたっているとはいえないのではないか。

子どもは「今」を生きている。わたしが、「さみしい」とか「かなしい」といった感情で、分離を捉えている間に、子どもはさっさと先へ行く。「今」が連なる時間を生きていれば、別れは大人が思う「別れ」とは異なるものとして、現れるのだろう。

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5歳、夏の横顔

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東京から福岡県久留米市に引越して、3年4ヶ月の月日が経ち、2歳だった我が子が、5歳になりました。いろいろあったけれど、保育園のおかあさんたちや近所のおじちゃん・おばちゃん、職場のみなさん、いろんな人たちに助けてもらって、なんとか繋いでこられた暮らしでした。長男が小学校にあがる前に、生活の基盤をシフトしなければきついなぁと思っていた矢先、新たな仕事のオファーをいただき、必然的にその仕事の現場がある山形県鶴岡市へと拠点を移すことを決めました。大づかみで言うと、そこでわたしは子どもに関わる仕事、書く仕事に携わることになります。詳細は、また後日、お伝えしたいと思います。

山形県鶴岡市は、山も川も海もあり、とても美しい街です。これからどんな冒険がわたしたちを待ち受けているのか。はじめての東北、はじめての雪かき、はじめてがたくさんあるって、嬉しいことだなと、いまはただワクワクしています。

(遠藤)