絵本「くまとやまねこ」― 子どもにとって生と死とは

くまとやまねこ

今回紹介する絵本は「くまとやまねこ」死にまつわるお話です。
ある事故によって仲良しのことりを失ったくまが、友人の死を受け入れ立ち直るまでのプロセスを描いていた物語です。

我が家ではこの絵本を、娘が4歳になる頃から読んでいます。
絵本を読み始めた当時、娘は死について正しくは理解していませんでしたが
ちょうどその頃祖父を亡くしたこともあってか、娘はこの絵本をことさら真剣に聞いていました。

「死」とは何か?
私たち大人は知識として、「心拍・呼吸・血圧などのバイタルサインが途切れた状態=死」であると知っています。
ですが人体の構造や機能に関する知識のない子どもは、当然そのような捉え方をしていません。
娘の場合、最初の死に関する情報は「おじいちゃんが動かなくなった」「大人の様子がいつもと違う」「箱に入れて焼いたら骨だけになった」
そんなことだったように思います。
そしてやはり色々と納得がいかなかったようで、葬儀の後半年ほどは何かにつけ生死にまつわる質問を投げかけてきました。
「なぜ生きている人と死んでいる人がいるのか?」
「何のために死ぬのか?」
「体を焼いた後、骨はどうなるのか?」

私は娘よりも多くの経験や知識を持っており、娘より論理的に思考することができます。
ですが生死や感情の機微にまつわることに関しては、娘の問いに十分に答えることがなかなかできません。
子どもと接したことがある方にはきっと共感いただけると思うのですが
そういった問いへの答え(仮説?)は子どもの方が豊かであることも少なくありません。

例えば娘との会話でこんなことがありました。
祖父の葬儀を終え何日か経った頃、娘が不意に「死ぬ人と生きている人のどっちの方がかわいそう?」と聞いてきました。
”死にいく者と生きている者のどちらの悲しみの方がより深いか”を問われていることは理解できましたが
私にはこの問いの意図も答えも見つからず、答えることができませんでした。
娘に、あなたはどう思うかと尋ねると、娘ははっきりと「死ぬ人が一番かわいそう」と答えました。
「身体がなくなったらみんな忘れてしまうから」と。
そしてこの「くまとやまねこ」を読んだ時にも、くまがことりの死をようやく受容し埋葬するシーンで
娘は「ことりは本当にひとりになってしまった」と胸を痛めていました。

私は娘がこういう心の寄せ方をすることが不思議でしばらく胸にひっかかっていたのですが、ある時不意に気がつきました。

私は死がどんな状態であるかを知っている。
また脳が思考や感情を司っていることも知っている。
だから既に脳を失った故人が「何を感じるか」という問いを立てることすら想像できなかったのです。
私が死について考える時、私は無意識に生きている人の暮らしを真ん中において思考していました。

死後の世界や故人の想いというものが本当に存在しているのかは私には分かりません.
ですが既に亡くなった方の気持ちに心を寄せることは、本来とても自然な心の動きであったと気がつきハッとしました。

この絵本を読んでいる時、静かに聞き入っている娘の表情を見るといつもドキドキします。
何を考え、何を言うのか?
ある一面において大人以上の知性を持っている子ども。
実際、読むたびに娘から色んなことを教えられます。
しばらく読んでいませんでしたが、最近5歳になったばかりの娘が今度はどんなことを言うのか
久しぶりに読んでみたいと思います。

(橋本)

くまとやまねこ(河出書房新社) 文:湯本香樹実 絵:酒井駒子